Please update your Flash Player to view content.

チェクスプローラ

チェクスプローラ - チェコのエクスプローラ

 
Ulti Clocks content

チェコの名前の日

09月10日 : Daniela
09月11日 : Irma
09月12日 : Denisa

ログイン



第4章:チェコスロバキア 印刷 Eメール

チェコスロバキア共和国

マサリク大統領1912~13年の二度にわたるバルカン戦争によって、セルビアが大幅に領土を拡大すると、バルカンはオーストリアとセルビアとの激突を待つばかりの情勢となった。オーストリアの背後にはドイツが、セルビアの背後にはロシアがひかえていた。これがやがて、フランス、イギリス、欧州諸国が次々戦争に引ききこまれ、さらには日本、アメリカにも拡大していく大戦の引き金となった。同じスラブ民族であるセルビア人やロシア人と戦いたくなかった多数のチェコ人は、ロシアに脱出してチェコとスロバキア共同の軍隊を組織した。両者を合体させたチェコスロバキア連邦共和benes国の建国を決心していたトマーシュ・マサリク(1850‐1937)は、ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、チェコスロバキアの独立を宣言、初代大統領に就任した。1918年11月のドイツとオーストリアの降伏後、長きにわたりチェコを支配していたハプスブルグ王朝は崩壊する。マサリクはスロバキア人の父、ドイツ系チェコ人の母の家庭に生まれている。貧しかったが教育を受ける機会は与えられ、ヨーロッパ諸国の学者たちとも語り合い、政治家の経験も積んだ。彼は政治的手腕で西欧型民主主義国家を築きあげ国民の信頼も厚かったが、国内の民族間の問題は解決するには至らなかった。

第2次世界大戦時のチェコ

ハーハ大統領1935年マサリクは健康上の理由で大統領を辞任。外務大臣だったベネシュが選出された。ポーランド国境近くズデーデン山脈ふもとに住んでいたドイツ人との問題は、ヒトラーの登場により影響力を増すことになる。ドイツがオーストリアを併合したのに続きチェコ領土、ズデーデン地方も併合しチェコ人は立ち退かされた。1930年代の経済不況の広がりが、チェコスロバキアの政権に影響を及ぼし、ズデーデン・ドイツ党がチェコスロバキア議会に議席を持つようになり、ドイツ人が不当に差別されているという口実で、ヒトラーと結託し始めたからである。ヒトラーは兵器工場の場としてチェコスロバキアを占領し、プラハにも侵攻。1939年ボヘミアとモラヴィアはナチス・ドイツに占領された。チェコ人は再びドイツ語を強要され、自由は弾圧されるという悲惨な時代に入る。第二次世界大戦の火蓋が切られると、ベネシュ大統領はロンドンに亡命して政府を樹立。イギリス、フランス、ソ連は亡命政府を正式に承認した。そして、ミュンヘン協定調印後、ドイツ軍に侵攻された時はハーハ大統領となった。ドイツはチェコの全てを占領し、チェコスロバキア共和国を解体、ドイツの保護国とした。第二次世界大戦末ドイツが降伏すると、ソ連軍により国土を解放されたチェコスロバキアは独立国家を取リ戻しベネシュが再び大統領になる。

共産主義

ゴットワルド大統領戦争終結後、ポツダムにおいてアメリカ、イギリス、ソ連は中央ヨーロッパの将来について会談が開かれた。三カ国はドイツにズデーデン地方のドイツ人を強制移動させることを合意させ、チェコスロバキアを復活させた。当時ベネシュ大統領の下、チェコスロバキア政府はソ連と同盟関係にあった。ザーポトツキー大統領第二次世界大戦時にゴットワルトなど多数の共産党幹部がモスクワに亡命していたからである。1946年戦後初の総選挙で、チェコスロバキア共産党は、多数獲得し第一党となる。3年間大統領に就任したベネシュは、ソ連の社会主義的政策に傾倒し、大企業の国有化に力を入れた。工業の活発化と労働組合の力により、共産党党員の数は増大していく。ノヴォトニ-大統領共産党の首相ゴットワルトは、次々と共産党から主要閣僚を任命し、思い描いていた内閣を実現する。1948年クーデターにより共産党は政権をとり、全ての私営企業は国営化された。ゴットワルドが大統領となり、スターリンを模範とした厳しい社会主義体制に変わった。スターリン支配のソ連を後ろ盾に、警察、秘密警察を始めとするすべての組織が政府の手中である。大企業、資産家は財産を没収され、産業、学校、経済は政府の管理下におかれた。労働者は低賃金で長時間働かされ、農業分野でも土地や機械を共有し徹底的に管理された。消滅するのも見習うかのごとくスターリンの死後、ゴッドワルドも後を追うように二週間後死去。共産労働組合の党首ザーポトツキーが大統領になる。1960年代、ノヴォトニー政権となると益々共産党体制は強くなり、経済はより悪化していく。

プラハの春

ドプチェク共産党党首政府が投資をしなかったので工場設備は古くなるばかりで、国営と共同組合農場の生産は上がらず、食料不足まで生じる事態となっていった。経済情勢の悪化につれ、共産党内部からも批判の声が出始めた頃、スロバキア共産党リーダー、ドプチェクが報道の自由など改革を掲げ、ノヴォトニーに挑戦した。ドプチェクは1968年共産党第一党書記として選出。彼は自由化のホープとして人々の人気をとり、人間の顔をした社会主義ともてはやされた。ノヴォトニーは辞任し、スボボダが大統領に就任。スヴォボダ大統領党は検閲を廃止し、宗教と新聞の自由を保証した。市場経済の導入、選挙制度の改革など、急速に自由化政策が打ち出されていった。これらの動きは、共産主義自らの政治体制を脅かすものとしてソ連とワルシャワ条約機構加盟国は良しとしなかった。フサーク大統領そして1968年8月チェコスロバキアに侵攻、軍事介入がなされた。ソ連の戦車によって「プラハの春」自由化運動は押し潰され、ドプチェクは逮捕される。その後1975年親ソ連派フサークが政権を取り、徹底的に改革派を追放していった。彼はもとは弁護士でスターリン時代には反体制派として投獄された経験を持つ。軍事介入後の「正常化」のため妥協案として駆り出されたが、実際には何も変わることはなかった。徹底した「無表情」が彼の特徴であった。チェコスロバキアの知識人インテリ層の大部分が追放され亡命し、言論の自由は奪われ、重苦しい時代が続く。

***
プラハ市内にあるアール・ヌーヴォ、市民ホール(ムハ・スタイル)

***
コヴァジョヴィッツ・ヴィラ(チェコ・キュービズム)

***
ユネスコ遺産ブルノにあるヴィラ・トゥゲンドハット (機能主義)

***
パルドゥビツェの火葬場 (ヒストリリズム)

***
1939年3月ヒトラー時代、ドイツ軍のプラハ侵攻に対して抗議する市民

***
1968年8月21日、ソ連軍によるチェコスロバキア侵攻

***
典型的な社会主義時代の団地

***
強制的に参加しなければならなかったメーデー

thumb_sidlist2
何もする事がなく退屈な日々を過ごす団地の人々

***
全員参加のスパルタキア体操

 

目次

他の記事