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第2章:チェコ王国 印刷 Eメール

プシェミスル家

プシェミスル・オタカル1世伝説上初代プシェミスル906年、マジャール人(ハンガリー)による大モラヴィア帝国の滅亡と共に、ボヘミアのプシェミスル家が権力を広げてくる。同家のヴァ‐ツラフ(921-929)はボヘミア公国を築くが、弟のボレスラフに殺害されてしまう。ヴァ‐ツラフは敬虔なカトリック教徒で、キリスト殉教者としてボヘミアの守護聖人となる。今日のプラハにあるヴァ‐ツラフ広場は彼の名にちなんでいる。ボヘミアは独立国家であるにもかかわらず、神聖ローマ帝国の臣下にあって、よりよい地位を獲得する政策を選び主権を維持していった。

プシェミスル・オタカルⅡ世1085年ブラチスラフⅡ世は神聖ローマ皇帝ハインリヒⅣ世に対する貢献が認められボヘミア王の称号を享受する。こうしたボヘミアとローマ帝国の複雑な関係がフリードリヒ帝の死によって圧力が弱まったのを機にプシェミスル・オタカルⅠ世は1212年シチリア王国の金印勅書を獲得し、ボヘミア王国を宣言する。あわせてモラヴィアの支配権やその他の諸特権をも取得していっ た。こうした政治的成功は経済の発展につながっていった。ボヘミアは交通、貿易の重要な地となり、商人、職人、鉱山技師としてドイツ人移住者も増えた。とりわけ銀の採掘は都市の発展をもたらした。この繁栄もオタカルII世(1253‐1278)の時はピークを迎え、彼は領土を南に広げオーストリアを征服し北イタリアをも含む広大なボヘミア王国を築いた。オタカルⅡ世はルドルフ(ハプスブルグ)との戦いで1218年戦死。彼の子ヴァ‐ツラフⅢ世も謀殺(1306年)されるとボヘミアのプシェミスル家は断絶する。

ルクセンブルグ家


カレ4世1310年神聖ローマ皇帝ハインリヒⅦ世の子、ヨハン・ルクセンブルグがボヘミア王となる。ルクセンブルグ王は新しい領地を加え、ボヘミア低地方と名付けた。父ヨハンの死後、1348年カレルⅣ世の法令によって正式な領土となった。カレルはボヘミア史上最も優れた国王であった。文学や芸 術、教育に深い理解を示し、チェコ語を含む5ヶ国語を話した。1344年、プラハ大司教座を設立し、1348年にはプラハ大学(中央ヨーロッパ初の大学)を創設した。フラッチャ二城やカレル橋も次々建造され、現在のプラハの基礎が形成された。1355年、カレルⅣ世は新世ローマ皇帝となる。彼は武力よりも平和的外交手段で統治していく。1356年ローマ皇帝を選出する7人の選挙候を定める「金印勅書」を発布し、選挙候の1つのボヘミア王国は中央ヨーロッパにおいて最高権力を持つ国となった。

ヤン・フスの時代

ヤン・フス師カレルⅣ世の子ヴェンツェル(ヴァ‐ツラフⅣ世)は父ほど政治度量を持ち合わせておらず、教会の権利や特権をめぐり度々大司教と衝突し、また大貴族らとも対立した。この時期、ボヘミアの宗教情勢は緊迫化していた。いまや全ヨーロッパの中心となるプラハではマルチン・ルターよりも一世紀早い宗教改革が行われていた。その指導者がヤン・フスである。彼はカレル大学長を務め、免罪符や聖職者の特権による圧政と教会の腐敗を告発した。国王ヴェンツェルも教会批判に対しては支持した。さらにフスはラテン語しか許されていなかった礼拝式をチェコ語で行い、下層聖職者や市民の間で絶大な人気を誇っていた。彼は教会の堕落を説き、最高権力者は教皇ではなくキリストだと主張した。これを怖れたローマ法皇カトリック側は、フスを捕えて裁判にかけ火刑に処してしまう。フス処刑はその後20年に及ぶフス派戦争(1419-1436)のきっかけとなる。

ヤン・ジシュカ隊長フス派はカトリック教会派に対して各地で戦った。チェコ人将軍ヤン・ジシュカ率いるフス派軍は様々な戦略手段で敵を打ち負かし強靭であった。ヴェンツェルの弟ジギスムント(1420-1431)は王位を継承しようとしたが、フス信奉者たちに受け入れられずボヘミア入りできずにいた。ついには5回にもわたる十字軍を送り込むが、次々とフス派軍に粉砕される。今やローマ教会も戦いよりも交渉が得策と考え、1431年バーゼル会議において和解を求める形をとる。この頃フス派は穏健派と急進派に分裂していく。両派は1434年リパニーで衝突し、ローマ教会と組んだ穏健派(ウトラキスト)が急進派を破った。1436年「協約」が結ばれジギスムントの王位も認められ、ボヘミアに平和が戻った。

イジー・ポディエブラディ王フス戦争翌年(1437)亡くなったジギスムントは後継者がおらず、しばらく無政府状態が続くが、ウトラキストのチェコ人貴族イジー・ポディエブラディが王に選ばれる(1458‐1471)。イジ‐はカトリックとの和解に努め、同時に穏健フス派は主導権を握っていく。イジーはボヘミアプロテスタントの「4か条」を法王に承認してもらおうとするが、拒否され破門されてしまう。これに屈せず重なる交渉の末、彼はフス戦争からの復興に成功する。しかし「4か条」承認を拒否された事はボヘミアに反カトリックを長く残存させる背景となる。

ヤギェウォ家

ブラディスラフⅡ世1471年ポーランドとリトアニアで勢力を持っていたヤギェウォ家のブラディスラフⅡ世(ポーランドカジミェシⅣ世の子)が王位につく。彼はハンガリー王位も兼ねていて貴族のいいなりだったため、王権の支配は弱まり、貴族制が確立していった。都市や農村に支配権を手に入れた大貴族は1487年農奴制をしき、チェコ人農民は領主の土地にしばりつけられた。また大貴族の多くはカトリック教徒だったため、穏健フス派との争いが絶えなかった。両派は一応和解するが、宗教や権力の対立に明け暮れ、ボヘミアの国力は衰弱していく。

十字架
コンスタンチヌスとメトディウスが持っていたビザンチンキリスト教会の十字架

 

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グラゴール文字‐ビザンチンから与えられた最初のスラブ文字

ロマネスク
プシェミスル期初頭、ロマネスク様式の教会

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10世紀に書かれた「神よ御許しあれ」の賛美歌。15世紀フス教徒にも歌い継がれた。

ゴシック
天に届くように建てられたゴシック様式の教会

ゴシックの鍵
ゴシック様式のかぎ

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近隣諸国との相互理解に努め、国連のような役割を理想として提唱した。

 

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